【大山康晴の盤外戦術】嫌がらせの域に達している大山将棋の裏の顔 | ブラジルから王手飛車取り

【大山康晴の盤外戦術】嫌がらせの域に達している大山将棋の裏の顔

大山康晴盤外戦術

大山康晴十五世名人といえば盤外戦術でも有名な棋士です。
首を差し出した相手の首を取らずに、全駒モードに入る大山名人は屈辱的な手を指し、相手にトラウマを植え付ける盤外戦術の名人でもあります。
盤外戦術で変わってしまった加藤一二三。羽生善治の青森事件。
そして、盤外戦術が効かなかった棋士・中原誠等々、大山名人の盤外戦術まとめです。

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大山康晴の盤外戦術

将棋の盤外戦術と言って、真っ先に思いつくのはきっと”大山康晴十五世名人”でしょう。

「わざといたぶって、相手を徹底的に侮辱する」「大山は盤上でも盤外でも、ライバルを徹底的に叩いて、その才能の芽をつぶしてきた」

このような意見も色んな棋士から出ている通り大山先生の盤外戦術は有名です。

対局相手が考えている時にスタッフや観戦記者と談笑したり、扇子をクルクル回して相手に集中させないのは序の口。

他にはタイトル戦の挑戦者決定戦で勝った大山先生は負けた対局相手がいるその場で関係者と打ち合わせを始めたなどがあります。

以下は大山康晴の盤外戦術エピソードです。

 

二上達也への盤外戦術

大山康晴先生が将棋連盟の会長だった頃、二上達也先生は理事を務めていました。
その時、大山先生は二上先生を徹底的に軽んじる態度をとって、精神的に追い込むこともあったそうです。
いわゆる”パワハラ”ですね。

二上達也先生自身も「いろいろやられて、コンプレックスを感じさせられましたね」と語っています。

大山名人の二上先生への盤外戦術は対局の時もありました。

大山名人がよく用いる盤外戦術として、優勢の将棋から徹底的にいたぶる指し方をして相手を精神的に追い込むものがあります。
大山名人得意の”全駒モード”です。

大山二上戦

後手が4二飛とした局面

先手が大山康晴先生、後手が二上達也先生の局面(持ち駒は省略)です。

先手の大山勝勢で進んだこの局面は”5一飛成”とすれば王手飛車取りが決まります。
”5一飛成”という決め手で普通なら投了という局面なんですが、大山名人はそうは指しません。

実践は”5三桂成”と指しました。

王手飛車取りを、あえてせずにじわじわと痛めつける。こういうのが大山将棋の裏の顔なんです。

 

加藤一二三への盤外戦術

ひふみん”こと加藤一二三九段も大山名人の盤外戦術の被害者です。

加藤九段と言えば18歳でA級八段。20歳で名人挑戦という天才棋士。

【加藤一二三九段の凄さがわかる】これが本当のひふみん伝説!神武以来の天才
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20歳で名人に挑戦した時の名人が大山先生でした。

この名人戦で加藤先生は第2局に敗勢になり、形作りをし、首を差し出します。

しかし、そこは大山名人。

決めにいかないんです。

ジワジワと相手を痛めつける手を指し、加藤先生を精神的に追い詰めます。

その盤外戦術が効いたのか、そのまま連敗し加藤は敗れ、それ以降、神武以来の天才は大山名人に勝てなくなったと言われています。

首を差し出した相手の首を取らずにジワジワ痛めつける盤外戦術は将棋に対して真摯な人間ほどよく効くそうです。
このジワジワ痛めつける手というのは降参を許さない、屈辱的な手であり、創作物としての棋譜を汚す行為だからです。

加藤九段と同世代の棋士達は「若い頃の加藤さんは普通だったが、大山名人に負かされすぎて、あんな風に変わってしまった」と話しています。

ちなみに加藤九段本人は大山名人のこのような盤外戦術を「かわいがってもらった」とプラスに話しています。

ひふみんのおもしろエピソード。天才の行動は奇なり【猫好きパウロの大食い伝説】
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高野山の決戦での盤外戦術

将棋の歴史に残る対局に”高野山の決戦”というのがあります。

【高野山の決戦】大山戦で大ポカをした升田幸三「錯覚いけない、よく見るよろし」
将棋界で有名な大頓死を生んだ「高野山の決戦」について解説している記事です。 1948年2月、和歌山県の高野山で名人への挑戦者決定戦が行われました。対局者はA級順位戦で1位だった升田幸三とB級順位戦で1位だった大山康晴です。将棋史を代表する大山升田の二人の因縁の対決の始まりともいえる最初の番勝負です。

これは升田幸三先生と大山康晴先生の名人挑戦者決定戦です(当時の名人は塚田正夫)

この時、升田先生はA級順位戦を1位で終え、名人への挑戦権を手にするはずでした。

しかし、その時の異例のルールで急遽”A級上位3人とB級の一位の合計4人でプレーオフを行う”ことになりました。
その時のB級の1位だったのは大山先生です。

そして、勝ち上がった升田先生と大山先生が挑戦者決定戦三番勝負を戦うことになります。

その当時、十二指腸の具合が良くなかった升田先生はせめて暖かいところでの対局を希望していました。

すると、升田先生のもとに対局通知が届いたのは対局の前日。
さらに2月の雪が舞う寒い高地”高野山”での対局となっていました。

高野山は和歌山県にあり、升田幸三先生は急いで大阪から高野山に向かったと言います。

結果は大山勝ちに終わっています。以下は升田先生への盤外戦術。

  • 予想外のプレーオフ
  • 寒いところでの対局
  • 対局通知は前日

これは当時の主催者である毎日新聞社と大山先生との共謀だったと言われています。

 

内藤國雄への嫌がらせ

「大山さんは、ふつうにやっても十分強いのに、なぜわざわざ、あんな嫌われるようなことをするのだろう」

そう語るのは内藤國雄九段です。

内藤九段も大山名人の盤外戦術の被害者の一人です。

”最強者決定戦”が”棋王戦”という新たなタイトル戦に昇格した当時、優勝したのは内藤國雄九段でした。
タイトル戦に昇格した棋戦のため、優勝賞金も20倍にあがり、さらにタイトルとして名乗れるようになったため内藤先生は喜んでいました。

しかし、ここで大山名人の嫌がらせとも言えるすごい盤外戦術が繰り出されます。

そのすごい盤外戦術とは”棋王戦というタイトルになるのは来年から”というもの。

実際に内藤先生は大山先生が会長を務める将棋連盟から通知が来たそうです。(以下が内容)

  • タイトル戦への昇格は来期から
  • 今期は第一回棋王で来期の優勝者を第一期棋王とする
  • 今期の優勝賞金はそのまま

盤外戦術というかもう”いじめ”ですよね。

ちなみに”棋王”の永世称号資格の条件は”棋王連続5期”のみというハードルが高いものです。
これは永世称号をほしがっていた米長邦雄永世棋聖に対する大山先生の盤外戦術…嫌がらせです。

 

谷川浩司への盤外戦術

A級順位戦最終局で勝てばプレーオフ進出がかかっていた大山康晴先生は谷川浩司先生と対局します。

その時の大山名人は肝臓の手術をして数ヶ月という病み上がり状態でした。

この対局で、大山名人が肝臓のあたりを手でおさえながら対局していた光景は胸が熱くなるものがありました。

しかし、この肝臓のあたりを手でおさえる行為が実は盤外戦術で、谷川先生は少なからずとも動揺したものと思われます。

後年、大山先生は肝臓の手術のことを「腹切っても痛くなかった。なんともなかった。切腹なんて楽なもんだなと思った」と述べています。

そして、この対局は大山勝ちに終わりました。

 

羽生善治にも盤外戦術

1988年、まだ羽生善治先生が18歳の頃の話です。

王将戦の予選で大山対羽生という対戦カードがありました。
しかし、この対局を大山名人は2日制の将棋にしてしまいました。

現代の感覚からすると、意味がわからないと思いますが、実際にあった話です。

1日目を将棋会館で指し、2日目を青森で公開対局するというもの。

その時の羽生先生のスケジュールは以下の通りです。

5月21日に将棋会館で大山と王将戦の予選1日目を指し、青森にすぐ移動。
5月22日に青森で大山名人と公開対局
5日23日が青森から東京への移動日
5月24日が竜王戦4組の決勝

という高校生にも関わらず超多忙なスケジュールです。

これが原因かはわかりませんが、羽生先生は出席日数が足りずに全日制の高校を辞めています。

 

盤外戦術が効かなかった棋士

中原誠

大山名人の盤外戦術も中原誠名人には効きませんでした。

ゴルフのラウンド終了後に、大山が風呂入らずに、すぐに宴会をしようと言いだし、みんなは大山先生に逆らえない中、一人中原先生だけは「そんな手は無いですよ。」と言って風呂に行ってしまいました。

ゴルフのあとなので当然まず風呂に入りたいですよね。

そこから他の人達も風呂へ行ってしまい、大山名人は自分の言い分をゴリ押しする手を逃しました。

 

羽生善治

上記した青森の件では羽生先生も苦労したと思いますが、対局では大山名人の盤外戦術をうまくかわしています。

ある日の大山対羽生の対局にて。

中盤から終盤に入ろうとしていた時点で、形勢は大山先生が勝勢に近い優勢を築いていました。
ここから大山先生得意の全駒モードに入り、若かりし日の羽生先生を痛めつけトラウマを刻みこむ予定でした。
そうすることで「大山には勝てない」とコンプレックスを植え付けるのです。

しかし、あっけなく羽生先生は投了。

得意の盤外戦術を使うことができなかったので、怒った大山名人は感想戦もせずに帰ったそうです。

こうして羽生先生は大山名人の盤外戦術をかわしています。

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