大山康晴十五世名人の生涯を解説している記事です。
少年時代はライバル升田幸三と切磋琢磨し、当時の最年少名人になりそのまま永世名人の資格を獲得しました。
三冠王になり、そして五冠王。そして、中原誠との因縁の対決へ。
会長職についても、その強さが衰えることがなく、69歳でA級在籍というまさに”不死鳥”の如し棋士人生でした。
目次
大山康晴とは
- 生年月日:1923年3月13日
- 出身:岡山県
- 師匠:木見金治郎
将棋の特筆すべき成績は以下。
- 通算1433勝
- タイトル獲得80期
- 一般棋戦優勝44回
順位戦A級在籍(名人在位含む) 連続45年44期
最年長A級 69歳4か月(A級棋士のまま死去)
兄弟子、升田幸三との少年時代
岡山県現在の倉敷市に生まれた大山康晴先生は5歳で将棋を覚えます。
将棋の才能に恵まれた大山少年はプロ棋士になるべく木見金次郎先生を訪ねました。
その時、大山先生が兄弟子である升田幸三先生と初めて対局します。
木見師匠が試験対局として大山先生と升田先生を対局させたのです。
手合いは升田先生の角落ち。
地元では敵なしだった大山先生は楽観していたが、結果は5局指して全敗。
当時の木見金治郎先生は「見込みはないだろうが、一生懸命やってみなさい」と言い、大山先生を内弟子として迎え入れました。
それからの大山先生は升田先生と枕を横に、寝起きを共にし、夜更けまで将棋を指す日々。
ある時、床屋へ髪切りに行った大山先生は床屋の主人との会話でうっかり「升田さんとも互角にやれそうです」と口を滑らしてしまいました。
それを聞きつけた升田先生は、すぐに大山先生を捕まえ、将棋を指しました。
それでボコボコにしたんですね。
何局指したかはわかりませんが、とにかくコテンパンに叩きのめしたんですね。
そして一言、升田先生が言います。
「田舎に帰れ」
涙を流した大山少年でした。
十五世名人・大山康晴
第二次世界大戦にて、大山先生は陸軍に召集されますが、縫工(ミシンを使った裁縫作業)になり、戦地に出向くことはなかったようです。
後世に大山先生は次のように語っています。
私は、小学校時代から将棋の師につき、木見門に入り、永世名人になって百二十四回の優勝をかさねてきた。そのためには自分なりに努力をしたつもりだが、ひとつには運に恵まれていたと感謝する。ことに軍隊では幸運をつかんでいなければ、沖縄戦に参加して、おそらくは生きて帰れなかっただろう。
終戦後の順位戦ではB級六段からのスタートで、見事B級順位戦で1位を取ると、当時の変則規定により、名人戦への挑戦権を獲得します。
これが有名な”高野山の決戦”です。
内弟子時代は升田幸三先生に歯が立たなかった大山先生でしたが、プロになると、実力は拮抗し、高野山の決戦で升田先生に勝利したことにより、時代の流れは大山先生に傾きます。
高野山の決戦の後の名人戦では塚田正夫名人(当時)に挑みますが、2勝4負で敗れてしまいますが、その後の1952年、木村義雄名人(当時)に挑戦し、4勝1負で名人位を奪取します。
当時大山先生は27歳で、当時の最年少名人であり、20代でのタイトル獲得も史上初のことでした。
大山先生は対局後の様子をこう記しています。
私は急に冷え冷えとした対局室で、去り行く木村さんを見ていた。
肩を落とした後ろ姿には、全力を尽くして敗れ去った人の孤独感だけが漂っていた。
その時、私は思った。私にもいつかはこの時が来る。
その日を私に宣告するのは兄弟子の升田さんだと感じ取った。
それから大山先生は5期連続で名人位を保持し”永世名人”の資格を獲得。
現在、大山先生は亡くなられたので”大山十五世名人”と敬称されています。
升田幸三に勝てない大山康晴
升田幸三先生と大山康晴先生の対局で有名なものに”香落ち戦”があります。
これは王将戦で3連勝した升田先生が当時の特別ルールで大山名人(当時)相手に香車を落して対局するというものでした。
当時、名人であった大山先生相手に升田先生が香落ちで勝ってしまったという前代未聞の出来事でした。
「ハラワタが千切れるほど悔しかった」
と語る大山先生の以下、後日談です。
どうしてこんなに弱くなったのか。吐きつけるようにつぶやいた。
不覚にもぼろぼろと涙を落した。悔しかった腸が千切れるほど悔しかった。
敗者のみじめさ。孤独感。なんて弱いんだ。声を殺して泣き続けた。
このあと、大山先生は無冠に転落し、一方の升田先生は将棋界初の三冠王になります。
それから2年間、大山先生は升田先生に負け続けました。
助からないと思っても助かっている
「升田に対する恐れが自分を敗者にする」
そう悟った大山康晴先生はこの時から一日100本以上吸っていたタバコをやめます。
ここから大山先生の逆転劇は始まります。
升田先生が持っていたタイトルを奪い、将棋界2人目の”三冠王”になります。
以降、升田先生はタイトルを一つも獲得することはできませんでした。
この頃に大山康晴が書いていた揮毫が。
「助からないと思っても助かっている」
でした。今でも扇子の揮毫などでよく知られている有名な言葉です。
五冠王・大山康晴
大山康晴先生の勢いはまだまだ止まりません。
その後、新設されたタイトル戦でも勝ち、大山先生は将棋界初の五冠王になります。
この頃の大山先生はほぼ無敵の状態で、タイトル戦で失冠することはほぼありませんでした。
二上達也・山田道美・加藤一二三・内藤國雄と若手が台頭してきますが、大山先生お得意の受け潰しと盤外戦術で実力的にも精神的にも負かしてしまいます。
その頃、大山先生が作詞された歌が以下です。
「勝負」
1 忍という字を 心にかいて
将棋修業は 果てもない
母の手作り この駒袋
見れば闘志が 燃えあがる2 棋士になるなら 天下の棋士に
なると誓った 阿知の里
あの日十三才 のぼりのかげで
拭いた涙は 熱かった3 ツゲの王将 ピシリと打てば
あすの相手が 目に浮かぶ
花の勝負師 ただひとすじに
おれは将棋の 道をゆく
昭和50年には「将棋道」という歌も作詞されています。
「将棋道」
勝ちを望むな 敗けぬと思え
心ひとつの 将棋盤
忍ぶ忍ぶ忍ぶ 五尺の身のつらさ
苦に苦をかけた八十一の
枡目にえがく 人間模様
「忍ぶ」というのが大山先生らしいですね。
天敵・中原誠の登場
中原誠先生とはタイトル戦で通算20回戦っているが、うち、大山先生の獲得数は4、中原先生の獲得数は16です。
大山先生は中原先生によって次々とタイトルを奪取され、50歳目前の1973年(昭和48年)王将戦で無冠になりました。
中原先生はこの年に四冠王(後に五冠王)になり”大山時代”が終わって”中原時代”が来たと言われるようになりました。
無冠になった大山先生は特例で現役のまま”永世王将”を名乗ることが認められ、1976年(昭和51年)には同じく現役のまま”十五世名人”を襲位しました。これらの永世称号を名乗るのは原則として引退後ですが、大山先生が既に将棋界の一時代を築いてきた実績を持つ棋士であることを考えると、称号なしの”大山九段”とは呼べないという連盟側の配慮でした。
会長兼棋士として
大山康晴先生は13年間も将棋連盟の会長をやっておられました。
タイトルホルダーでありながら会長職を務めたのは大山先生だけです。まさにプレイングマネージャー
当時は、A級棋士で王将を3期連覇しながら日本将棋連盟の会長を務め、将棋界の運営にも精力的に従事していました。
その多忙さから、対局中に手帳でスケジュールを確認したり、対局中に会議に出席したりと常人では考えられないような忙しさだったようですが…。案外、大山先生お得意の盤外戦術の一つだったのかもしれません。
会長に就任して大山先生が行ったことで大きなことは以下の2つです。
- 将棋会館の建設
- 関西将棋会館の建設
大山先生は1990年に、将棋界から初めて文化功労者に選ばれました。
少なくとも名人でいる間は、大山は悪役だった。棋士の大半が好感を持っていなかった。しかし、五十歳を過ぎ、会長になってから人間が少し変わった。ファンに誠意を持って接し、サービスの限りを尽くした。晩年はファンからの大山の悪口を聞いたことがない。
河口俊彦(wikipediaより引用)
不死鳥・大山康晴
「A級から落ちたら引退する」
そう宣言した大山康晴先生は幾度かの降級危機をやり過ごし、69歳までA級に在籍することになります。
晩年の大山先生は肝臓癌と戦っており、手術を受けたばかりの体で対局に臨むなど、無理をしてきたようですが、最後は肝臓癌のために69歳で亡くなられています。
以下、晩年の大山先生の功績です。
- 60歳でNHK杯テレビ将棋トーナメントで優勝
- 63歳となった1986年に名人戦で中原名人に挑戦
- 66歳にして南芳一棋王に挑戦(タイトル挑戦の最高齢記録)
- 69歳4か月でのA級在籍は将棋史上最年長
プロ棋士のコメント
大山先生の将棋観で有名なのが『初めのチャンスは見送れ』というものです
序盤はあまりうまくなかったのですが、早い段階で激しい戦いにはせず、できるだけ長引かせる。そうすると、相手はいつの間にか差をつけられているといった指し方です。
相手を丸め込んでいくように、ゆっくりした勝ち方をする人でした
谷川浩司
「大山先生が50歳を過ぎても普通に勝っていたので、年をとってもそれほど棋力は落ちないものだと思っていた。しかし、実際に自分がその年齢に達してみて、大山先生が例外だったことがよく分かった
当時、日本将棋連盟会長であった大山は多忙を極めた。
なので、盤の前に座りながら手帳を開き、スケジュールの確認をする姿が散見される。
そして、対局中でも会長業務をこなすことは日常茶飯事であり、ときには対局日にも打ち合わせが入り、一手指すごとに中座することもあったという。
そんな中で、あれだけ勝っていたのだから、もはや人間業ではない。」羽生善治
「大山先生は読まなくても急所に手がいく」
「将棋の研究をしているとは思えなかった。そもそも棋譜を並べる時間もなかったはずだ。にもかかわらず、66歳でタイトルに挑戦するなど、どうやって強さを維持し続けているのか不思議でならなかった。
大山将棋の凄さは手の良し悪しではなく、相手を見て指すことだ。悪手でも躊躇わず指していく。相手を惑わすためだろうが、洞察力や観察眼が優れていないと出来ない芸当だ。ここぞという対局での威圧感も鬼気迫るものがあった。横で対戦したり控室で検討したりするだけでも、気迫がヒシヒシと伝わってきて怖いぐらいだった」
羽生自身は大山の域にまで、とても達していないとも語っていらっしゃいます。