1993年11月23日
兵庫県西宮市で、プロ棋士の森安秀光九段(当時44歳)が胸を刃物で刺され亡くなっているのを妻が発見しました。その後、事件の容疑者として、中学1年生の息子が警察によって保護されました。
この記事ではプロ棋士の森安九段の事件について解説しています。
森安秀光九段について
1949年生まれ。
瀬戸内海に浮かぶ笠岡諸島の一つ北木島に生まれる。
兄もプロ棋士(森安正幸六段)
船乗りである父親から将棋の英才教育を受けていた。
ちなみに親子三人みんな同じ戦法(振り飛車)だったそうです。
1962年、藤内金吾八段の弟子になります。
藤内金吾八段は坂田三吉の弟子なので、森安九段は坂田三吉の孫弟子にあたります。
森安九段は中学卒業後
奨励会にはいり、パン職人として働きながら将棋に励み、その4年後にプロ棋士になりました。(四段昇段)
プロ棋士になってからは新人戦で3回優勝するなど、目覚ましい活躍を見せ、1982年に最多対局賞と最多勝利賞を獲得。
そして、1983年には棋聖戦のタイトル挑戦者になります。
その棋聖戦では、中原誠(当時棋聖)に2連敗したあとの3連勝で、見事逆転勝ち、棋聖位を獲得します。
その粘り強い棋風から”ダルマ流”と呼ばれ森安九段はトップ棋士として活躍していました。
1984年にA級順位戦をトップで終え、名人戦の挑戦者となりますが、当時の谷川浩司名人に1勝4負で敗北
ここから森安九段は低迷期に突入します。
1986年にA級からB級1組に降格し、
1987年にはB級2組に降格
順位戦で連続降格した森安九段は負け込むとイライラするようになり、家に届く将棋雑誌も読まなくなります。
家ではファミコンをやりこんだり、囲碁にこっていたとこも…
そして、昼間から酒を浴びるように飲んでいたことも珍しくなかったようです。
何年かの低迷期を経たあと、1991年にB級1組に昇格し、
1993年にはB級1組の順位戦では4勝3敗で4位につけていましたが、1993年11月23日に自宅で何者かにより刃物で刺され亡くなられています。
森安九段の事件について
11月22日 午後5時頃
妻がパート先から帰る旨を伝えるため、家に電話すると森安九段が電話に出たそうです。
妻が帰宅すると森安九段はいなかったので、息子(少年A)に尋ねると
息子「僕が帰った時にポストにカギが入っていた、どこかへいったんと違うかな」
一応、森安九段の書斎をのぞいたが、暗かったため、酒を飲みに行ったんだろうと妻は推測します。
森安九段は、酒を飲んで、夜遅くに帰宅するのも珍しくなかったため、妻は特に気にしなかったそうです。
森安九段の司法解剖の結果
11月の22日の午後5時から6時頃に森安九段は亡くなっていたとされているため、この時にはすでに亡くなっており、推定時刻から、森安九段は、妻からの電話に出たあとに、亡くなったことになります。
11月23日 勤労感謝の日
この日、学校は休みで、
「今日は昼まで、寝てていい?」
「数学の問題がわからない」
と息子(少年A)との朝の会話は普段と変わりなかったと森安九段の妻は述べています。
午前8時50分頃
妻が二階の森安九段の書斎兼寝室に行くと、畳に血がついているのを発見します。
布団をめくると、うつぶせになり亡くなっている森安九段を発見。
妻が警察に電話しようとすると、息子(少年A)が襲いかかり、2人はもみ合いになります。
息子(少年A)「(父が亡くなったのは)僕のせいやない。学校を休んだことでガチャガチャ言うからこうなったんや、あんなに叱られたら、僕の立場がない、逃げ場がなかったんや」
と絶叫。
この際、妻は首に全治2週間のケガを負いますが、なんとか息子から包丁を奪い取ることに成功します。
このあと、逃走した少年Aは行方不明に。
11月24日、午後2時30分過ぎ
自宅から7km離れたゲームソフト店に息子(少年A)が現れ、警察に保護されます。
保護時、少年Aは受験勉強を強いてきた父親を批判する言葉を出しており、
少年A「みんな、寄ってたかって僕をいじめる。戦争なんか、大人がやって子供を巻き添えにする。犠牲になるのはいつも子供や」
捜査員は少年Aの話を聞くうちに、周りの大人に根強い不信をもっていると感じたといいます。
少年Aは母親を切りつけてケガさせたことは認めたものの
父親への犯行は最後まで否認し続けました。
亡くなった父親(森安九段)ついて少年Aは
「僕が帰ってきたときには亡くなっていた。家族に言ったら疑われると思って黙っていた」
と供述しています。
児童相談所が処遇を決定したのは、2ヶ月後の1994年1月24日で、その処遇については少年法により公開されませんでしたが、噂では、医療少年院に入りカウンセリングが続けられたと言われています。
※少年法では14歳未満の少年は刑事責任を問えないため、警察は児童相談所に通告
森安九段を指した時に使われた刃物の特定も出来ず、操作体制を縮小したため、この事件の真犯人は公式には不明。
事件の背景
少年Aは小学校3年生から塾に通っていました。
授業参観に森安九段自ら出かけていくほど、教育熱心だったそうです。
周囲には「うちの子は灘高から東大や」と酔いながら話していたことも。
小学6年生になると所属していたカブスカウトを退団し、中学受験に備えます。
しかし、少年Aは第一志望の灘中学には落ちてしまいます。
この受験失敗のこともあってか、森安九段からの息子(少年A)へのプレッシャーは相当なものだったそうです。
第一志望の灘中学には落ちたものの、神戸市内の別の難関中学に合格した少年A。
その学校はなかなかに厳しいものだったそうで、授業中に私語をすれば、先生は噛みを引っ張ったり、机を蹴ったりしたらしく、まもなくクラスから4人が転校していったとのこと。
学校以外にも塾に行かなければついていけないほどで、
息子Aは徹底した指導で有名な高校受験専門の塾に通っていました。
成績でクラスを分け、無断欠席は親に報告、そこはついていけない1年生が大勢やめていくようなところでした。
少年Aは2学期から学校を休みがちになり、親子で言い争う声を近隣住民がよく聞いていたそうです。
家にも学校にも逃げ場がなく、追い込まれた少年Aが唯一安らげる場所が犯行後に保護されたゲームソフト店でした。
店内のゲーム機で遊ぶことができたそのゲームソフト店は少年にとって居心地が良く、店員にもよくなついていたという。
年に1,2度しかゲームソフトを買ってもらえない少年Aはそのゲームソフト店に週に5回もおとずれるようになっていました。
「勉強が嫌いになった。についていけない」
「どこに行っても勉強勉強といわれうんざりや、もう家に帰りとうない」
と少年がよく愚痴をこぼしていたとのことです。
事件当時、少年Aはまだ153cmと小柄な体格でした。