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【小池重明】伝説の真剣師の一生を解説【伝説の将棋指し】

真剣師”小池重明”を紹介している記事です。
加賀敬冶との通天閣の激闘で日本一の真剣師になり、プロ棋士にも負けなかった小池重明。
終盤力はA級八段と評され、将棋は怪物のように強かったが、私生活では女性関係の問題や金銭トラブルと問題ばかりでした。

小池重明の生い立ち

小池重明は1947年、愛知県名古屋市で生まれます。
母親は娼婦、父親は傷痍軍人を装う物乞いでした。

「男なら博打の一つも憶えておけ」

と将棋を教わったのはその父親からでした。

将棋の腕がメキメキと上達していった小池は、10代半ばにして地元では敵なしというほどの強豪になっていました。

そのあと高校を中退し、東京の上野の将棋センターで従業員として働くことになり、プロ入りの話もでますが、キャバレーやホステスなどの夜遊び三昧で、勤めていた将棋道場の金を着服し、夜遊びにつぎ込むという悪事を働いていた小池。

やがて、そのことがバレて、道場を解雇され、プロ入りの話もなくなります。

夢だった将棋のプロ棋士の道がとざされた小池は地元、愛知県で結婚し、トラックの運転手をしながら生計を立てます。

しかし、妻との間に授かった子供が出産から数日で天へ召されるという悲劇に、小池は精神的ショックから仕事をやめ、賭け将棋の道に進んでしまいます。

ここから”真剣師小池重明”の伝説ははじまります。

※真剣師とは金を賭けて将棋を指すギャンブラーのこと

 

小池重明の半生

新宿の将棋道場に席をおいた小池は賭け将棋で連戦連勝。
プロ棋士にも勝ってしまうほど小池は強かった。

新宿の街をタバコを吸いながら歩く、眼光鋭いその男。
いつしか小池はこう呼ばれるようになりました。

 

 

そして、ついには、日本最強の真剣師と評されていた大阪の加賀敬治と対局します。
加賀敬治。別名”鬼加賀”と恐れられたこの男との対局ももちろん賭け将棋でした。

場所は大阪の通天閣 新世界。
のちに”通天閣の死闘”と呼ばれるようになるこの対局は二日がかりで行われた大勝負でした。

以下がその時のルールです。

  • 1日目は5番勝負、先に3勝した方に50万円
  • 2日目は10局指して、勝ち越した分につき一局10万円

1日目は小池の3勝1敗、2日目は小池の4勝6敗。

トータルで7勝7敗ですが、金額でいうと…。

  • 1日目:小池50万円 加賀0万円
  • 2日目:小池0万円 加賀20万円
  • 合計:小池50万円 加賀20万円

将棋の戦績は互角ですが、金額では倍以上の差がついています。

2日目の最終局を終えたあと加賀敬冶はこう言いました。

「もう一度やったら勝てる自信がない」

こうして事実上の勝利をおさめた小池は”最強の真剣師”の称号を手に入れたのですが、そんな強い男と賭け将棋をする者はいなくなりました。

妻とも別居の末に離婚。
憂さ晴らしに毎日、酒を飲み歩く不摂生な日々が続きます。
そんな時、小池にアマチュアの将棋大会の話が舞い込んできました。

「賭け将棋ではないが優勝すれば賞金が出る」

こう聞かされた小池は大会に出場し、見事その大会で優勝してしまいます。
それも一度だけではありません。
1980年から2年連続で優勝しアマ名人のタイトルを獲得しています。

そしてもう一つの異名を小池は持つことになります。

 

 

アマ名人とはアマチュア界で最強の称号。
そんな強い小池と賭け将棋をしてくれる相手などもちろんいません。
そのため小池はたびたびプロ棋士と指していたようです。

そのエピソードにはこんなものがあります。

ある日「将棋ジャーナル」の企画で小池はプロ棋士である森雞二先生と指し込み三番勝負を行なうことになりました。

森雞二先生は当時、棋聖への挑戦権を手にいれたばかりの将棋界トップの実力者。

手合は角落から出発して、一番手直りで、三番指し込む。
つまり、森先生が勝ち続ければその後、飛車落ち、飛香落ち、小池が勝ち続ければその後、香落ち、平手なり、どちらかが勝ち越しても必ず三局対局します。

そこで小池は逆転に次ぐ逆転で、なんと最後の平手まで勝ってしまいました。

結果は小池の三連勝

小池の言葉でこんなものがあります。

「我々は勝ったら金をもらう、負けたら金を払う勝負をしている。
プロは勝っても負けても金をもらう。我々の方が、厳しい勝負をやっている。」

wikipediaより引用

小池重明の将棋

そこまで強い小池がどんな将棋を指していたかと言うと、それはもうめちゃくちゃな将棋でした。

四間飛車を中心とする振り飛車党で、序盤はめちゃくちゃで必ずといっていいほど劣勢になります。
しかし終盤になると、驚異的な終盤力で逆転して小池の勝ちに終わっているという不思議なものでした。

花村元司九段が「終盤はA級八段ある」と小池の終盤に太鼓判を押していたほどです。

棋譜だけではわかりませんが、小池は時間の使い方もうまかったと言われています。

序盤は適当にノータイムで指して、相手に攻め込ませ時間を使わせる。
そして、相手が焦ったところで妙手を繰り出し、一気に攻め込む。
こんな将棋でした。

そして驚くことに、将棋の研究などは一切行わず。自宅には将棋盤一つ置いていませんでした。

小池重明の将棋について羽生先生曰く。

「生き様と同じで型破りな将棋をする人でした。でもとにかく強い人でした。」

羽生先生は奨励会時代、アマ名人戦の記録係をやっていて、たまたま小池重明の記録を取っていたそうです。

ちなみに「記録も取らずにプロになるつもりか!」と怒られるぐらい、すぐにプロになってしまった羽生先生が取った記録の数はかなり少ないです。
その中の一つが小池重明の対局だったのはすごい偶然かもしれません。

 

小池重明の私生活

小池の将棋はめちゃくちゃでしたが、私生活はもっとめちゃくちゃでした。

ギャンブルにのめり込み、借金地獄、借りた金を返さずトラブル多数、浪費癖、そして女性関係のトラブルも多かったと言われています。

以下は小池重明が犯したトラブルの一部です。

  • 賭け金を出してくれるスポンサーが付いていた小池は、そのスポンサーの金を盗んで逃げたことがある。その後、すぐに戻って泣いて謝り、賭け将棋で返済。小池は「借用書を置いて出奔したので、泥棒ではない。」と言い訳。
  • 人妻との駆け落ち3回。
  • 酔って警官を殴る。
  • 大山15世名人との角落ち対局の時、前日に事件を起こしたため、留置所から対局場へ向かった。
  • その対局にはボロボロの服装で登場し、靴下すら買えず裸足だったが、対局では勝利。
  • プロ入りの話は合計2回あったが、2回とも、私生活での不祥事によって取り消し。

 

そして2回目のプロ入りの話がなくなったのが相当ショックだったのか、それから、小池は2年間も将棋から離れて暮らすことになります。

 

小池重明、未だ健在

そして、将棋ジャーナルを発行していた作家の団鬼六によって小池は再び将棋界へと戻ってきます。

団鬼六の思惑としては、小池を惨敗させ「二度と将棋界に立ち入れないようにするつもりだった」と著書の中で語っています。

しかし団の企画で行われた対局で、アマチュアのタイトルホルダーの実力者達を相手に将棋を指した小池は連戦連勝します。

団鬼六「将棋に関しては小池は化け物だ」

ちなみに団鬼六はアマチュア六段の実力者ですが、小池と50局対局し、全敗したそうです。
しまいには、小池が団に駒を売っていたそうな…それでも小池勝ち。

その後、小池重明は肝硬変と診断され、入院生活を送ります。
80kgあった体重も半分近くにまで痩せ衰え、その時には勝負師としての面影は消え失せていたと言われています。
それでも、小池は病院を抜け出し、将棋を指し、勝ち続けました。

最期は病室のベッドで体に繋がれたチューブを自ら引きちぎってお亡くなりになりました。45歳という若さでした。

小池重明の棋譜は多数存在し、小池重明実戦集もあり、あの藤井聡太先生も小池の棋譜を見て将棋の勉強をしていたのは有名な話です。

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