将棋界で有名な大頓死を生んだ”高野山の決戦”について解説している記事です。
1948年2月、和歌山県の高野山で名人への挑戦者決定戦が行われました。
対局者はA級順位戦で1位だった升田幸三とB級順位戦で1位だった大山康晴です。
将棋史を代表する大山升田の二人の因縁の対決の始まりともいえる最初の番勝負です。
異例のプレーオフ制度
大山康晴と升田幸三は昭和を代表する大棋士です。
二人は共に木見金次郎門下で、兄弟子(升田)と弟弟子(大山)という関係です。
升田はA級順位戦で優勝したのですが、その年のみ制度が変更され、順位戦のあと、A級の上位3名とB級の1位の計4名でもう一度名人への挑戦権を争うことになりました。
簡単に言えばプレーオフのようなものです。
例年、A級順位戦での優勝者が名人挑戦者となるので、A級順位戦で優勝した升田幸三からしたら「ふざけるな」と言った感じでしょう。
その時、B級で1位だったのは升田の弟弟子である大山康晴でした。
そして、この名人への挑戦権争いは升田幸三と大山康晴が勝ち残り、挑戦者決定戦の三番勝負が行われました。
対局の場所となったのは和歌山県の高野山。
当時、十二指腸を病んでいたため、暖かい対局場を希望していた升田の意向とは逆に、2月の雪の舞う高地、”高野山”が対局場となりました。
しかも対局通知が升田のもとに届いたのは対局の前日だったそうです。
ここまでの升田への妨害ともいえる不利な条件をまとめると
- その年だけプレーオフ制度の導入
- 寒さが苦手な升田に対して、対局場は2月の寒い高野山
- 対局通知が届いたのは対局前日
当時の名人戦の主催者である毎日新聞が升田のことを嫌っていたと言われていますが、これは結構ひどいですよね。
高野山の決戦
対局の前日に対局通知が届いた升田幸三ですが、なんとか対局場である和歌山県の高野山にたどり着きます。
ですが、その急な移動の疲労からか第一局を落してしまいました。
続く第二局では升田の勝ちとなり、1勝1負で迎えた最終局。
形勢は升田有利に進んでいました。
しかし、最後の最後で升田幸三はミスをしてしまうんですね。
それが下図
後手の大山が8七龍として王手をかけた局面です。
このあと升田は4六玉としました。
この手が歴史的大頓死を生んだ大ポカの一手です。
この手を指したことにより、手数は長いですが、6四角以下の詰みになっています。
そして、最後に升田幸三が投了したあとに呟いた言葉が将棋界ではとても有名です。
「錯覚いけない。よく見るよろし。」
ちなみに正着は5七桂馬または5七金の合駒ですが、ここから升田が勝ち切るのも結構難しかったと言われています。
なので、そこまでの大頓死ではなかったというのが現代の見解です。
高野山のトラウマ
この年、大山康晴は当時の塚田正夫名人に挑戦しますが、残念ながらタイトル奪取とはなりませんでした。
一方の升田幸三は、この高野山の決戦のあとは浴びるように酒を呑んだそうです。
もともと大の酒好きで5歳の時から呑んでいたと言われる升田幸三ですが、体はあまり強いほうではなく、酒のせいか一日数百本吸っていたタバコのせいかわかりませんが、体を壊しては休場することも珍しくなくなっていきます。
さらに、この時の大頓死がトラウマのようになってしまい、タイトル戦で大山康晴にことごとく負けるようになりました。