「羽生、討つべし!」
将棋界のスーパースターである羽生善治に世間から批判が集まったことがあります。
将棋界の上座・下座問題で羽生がタブーに触れてしまったからです。
「私の座る場所がない」「この子が来年、私の首を取りに来るんです。」等々。
この記事では”3期連続上座奪取事件”の真相について解説しています。
将棋界の上座・下座問題
将棋の対局には様々なマナーがあります。
まぜ、指し始める前に必ず「お願いします」と一礼。
投了の際もあいまいにせず、はっきりと「負けました」「参りました」と声を出して意思表示をします。
他にも「待った」をしないなど基本的なことはありますが、プロの対局ではさらに厳格になります。
- 駒袋を開けるのも仕舞うのも上座に座る者
- 駒の並べ方は”大橋流”か”伊藤流”
- 将棋の「王将」には「王」と「玉」があり、上座の者が「王」を取り、下座の者が「玉」を使用する
- 振り駒は、上座側の駒、歩5枚で行う
パッと思いついたものだけ書きましたが、「大橋流ってなに?」「伊藤流って?」って感じだと思います。
簡単に言うと、駒を並べる順番が違います。
こういった細かいものまで、プロの世界では常識として通っています。
プロの対局マナー(作法)は基本的には上座と下座が基準となりますが、その”上座下座”に明確な決まりはありません。
そのため対局の中継解説でも、対局者の”上座下座”の譲り合いが時々紹介されていたりします。(棋士の人間味が垣間見れる瞬間としてファンとしては心が和みますが)
”上座下座”を決める基準としては竜王、名人を序列のトップとし、次にタイトルホルダーそして、順位戦の序列、あるいは先輩後輩という感じになりますが、たとえば王将位のタイトル戦では竜王相手にも王将のタイトル保持者が上座に座ったり、順位戦では順位を優先するなど複雑で、実際に上座か下座か間違えるなんてことも起こり得ますし、若手のタイトルホルダーの場合、大先輩に対して上座に座ることをためらうこともあります。
若き日の渡辺竜王も糸谷元竜王も序列トップの「竜王」を持っていたにも関わらず、対局者であった羽生先生に対し下座に座って待っていたこともありました。(その後、入室した羽生が上座に座るよう促した)
そのため対戦相手よりも後に入室して、空いている方の席に座るといった工夫も見られます。
上座に座った羽生
1993年、将棋界に上座下座に関する大事件が起きました。
それは名人への挑戦を決めるA級順位戦で、当時23歳という若さにも関わらず四冠を持っていた羽生善治四冠(当時)が中原誠前名人(当時)に対し、上座に座ったというもの。
このとき羽生先生は確かに四冠王ではありましたが、中原先生は先輩であり永世名人でもあり、順位戦の順位も上であり(中原1位、羽生9位)当時は中原先生が上座に座るのが当然でという考え方でした。
それでも中原先生は何も言わずに「フフッ」と笑って下座に着いたそうですが、この上座事件は物議をかもします。
「名人経験者に対して上座に座るとは何事か!」
私の座る場所がない
週刊誌上でも叩かれた羽生先生ですが、このことを知ってか知らずか、次の谷川浩司先生とのA級順位戦でも、上座に座ります。
順位戦とは棋士にとって序列を決める棋戦でもあり、棋界最高位の名人へとなれる「特別」なリーグ戦です。
この時、基準になるのは順位戦の順位、羽生先生はA級順位戦初参加のため順位は9位、谷川先生は4位でした。
そして、その後の、同じく谷川先生との名人挑戦を懸けたA級順位戦プレーオフでも羽生先生は上座に座ります。
対局室に後から現れた谷川先生は口にこそしませんが表情は硬く怒りをあらわにしていたことでしょう。
ちなみに谷川先生は名人位についていた時、とある対局で加藤一二三九段が上座に座っているのを見て「私の座る場所がない」といって怒ったことがあります。
以下、谷川先生の著書よりその時のことを記した内容です。
将棋は礼を重んずる世界である。何百年と続いている名人位の権威を汚すことにもなるわけで、「これはおかしい」と思わずカーッとなってしまった。
だからといって、先輩の先生に対して、後輩の私が「そこをどいてください」というわけにもいかない。
そこで、部屋に入るのをちょっとやめ、いったん手洗いに行って、手を洗ったりして頭を冷やすことにした。頭に血がのぼったまま指すのは、失礼なことになってしまうからだ。
しかし「これはおかしいのではないか」という思いは消えない。
対局を放棄するわけにもいかず、そのまま対局室に戻って、黙って下座に座った。
そして私が先手番だったので、初手を指すのに十分間ぐらい考える時間をとったのである。
普通、初手は開始と同時に指すのだが、間を置いたのである。十分もたてば、いろいろ考え、怒りもおさまってくる。
「怒りを一日中持ち続けられるならば、ずっと怒っていたほうがいい。しかし、ずっとそんなに怒っているわけにはいかない。冷静に指して、相手に勝つのが一番だろう」というふうに気持ちを整えたのだ。
勝負師にとっては、勝つことが大前提である。
心を乱されて負かされるというのは面白くない。
冷静になることで、目の前の相手をやっつけて気持ちを晴らすほうが得策だ。
冷静さを取り戻した十四時間後、私は勝利を収めることができた。
谷川浩司著『集中力』より引用
当時の名人であった米長邦雄先生はこの上座事件について週刊誌上で中原、谷川両者の大人ぶりを褒めると同時に羽生四冠(当時)を叩き、周囲には「羽生、討つべし」との非難の声が広がっていきました。
しかし、羽生先生は逆境を何度も跳ね返してきた天才です。
そして、周囲の視線、意見を気にしません。そのためいつも寝癖が…。
羽生先生はこの上座に座った3対局で全て勝ち、A級順位戦初参加で名人への挑戦を決めます。
そして「羽生、討つべし」という逆境にありながらも名人戦で当時の米長名人に4勝2負で勝利、名人位を獲得した羽生先生は自身初の五冠王となりました。
この時のことを羽生先生は著書「決断力」でこう語っています。
私は、本当に真っ暗闇の道を一人で歩き続けている気持ちだった。
将棋とは孤独な戦いである。
追い込まれた状況からいかに抜け出すか。
追い込まれるということはどういうことか、でも、人間は本当に追い詰められた経験をしなければダメだということも分かった。
逆に言うと、追い詰められた場所にこそ、大きな飛躍があるのだ。
米長先生に挑戦した名人戦は、それを骨の髄から学んだ大きな一番であり、私の分岐点となった勝負であった。
(引用:「決断力」より)
結構、苦しんでいたことが伺えますね。
個人的には、米長先生の盤外戦術でもあったような気がします。
あの子が来年、私の首を取りにくるんです。
この事件については色々と説がありますが私はこのように考えます。
羽生先生は四冠を保持している自分が上座だと思い込んでいた。
もちろん先輩棋士に敬意を表して下座に座り待つこともできたが、四冠の名に恥じないよう、気合負けしないよう、羽生先生は下座に座って待つわけにはいかず、羽生先生は本当は座りたくない上座に信念を持って座った。
そしてこの初参加のA級順位戦は羽生先生にとって特別なものでもあったと私は考えています。
「なんとしても名人挑戦者にならなくては」
羽生先生はこう考えていたと思います。
というのも、この”上座奪取事件”が起こる前年の米長邦雄先生の名人就位式・祝賀パーティーでのこと…。
2000人を超える参加者の前でユーモアあふれる米長先生は壇上から羽生先生をこう紹介します。
「あの子が来年、私の首を取りにやってくるんです。」
この時、羽生先生はそう紹介され嬉しかったと後述しています。
だから羽生先生は負けるわけにはいかなかった。
米長先生の宣言通り、なんとしても名人挑戦者にならなくてはと、その期待に応えたい使命感のようなものがあったんだと私は思います。
そして、その宣言に答えるように、名人挑戦を決めた羽生先生はやはりすごい。
ちなみにこの3期連続上座奪取事件は後日、将棋雑誌に羽生先生自身の謝罪文が載り一件落着となりました。
近年では、羽生先生は対局時間ギリギリに対局室に入るというイメージが定着していますが、もしかすると、上座下座の件もこのことに影響しているのかもしれません。
相手より後から入れば、空いている席に座るだけで済みますからね。