【羽生七冠王誕生】七冠失敗から七冠成功までの執念の1年間が凄い

「全プロ棋士にとっての屈辱です」

これは羽生七冠王の誕生に対して当時の森下卓九段が述べた感想です。
しかし七冠王になる1年前、羽生六冠(当時)は七冠への挑戦に失敗していました。
失敗からの1年間、まさか六冠全てを防衛し、再度七冠へ挑戦するなんて人間技じゃない。

当時の将棋界のタイトルは竜王、名人、棋聖、王位、王座、棋王、王将の計七つ
1995年、将棋界で初めて羽生善治(六冠)が当時の谷川浩司王将に七冠独占を懸けて挑みます。

この時羽生六冠は王将以外のタイトル竜王、名人、棋聖、王位、王座、棋王、を同時に持っていました。

夢の七冠か!?意地の七冠阻止か!?

将棋界のみならず日本中が注目したこの王将戦は、1月に開幕しましたが、王将戦七番勝負の第一局と第二局の間に阪神淡路大震災が起こり、関西に拠点を置いていた谷川王将(当時)も被災。

皮肉な話ですが、この出来事が谷川王将(当時)にとってプラスに働いたそうでした。

「負けることが怖くなくなった、というんですかね……神戸は地獄のような状況なのに、大阪では普通に生活して対局が行われている。将棋を指せるのは何て幸せなことだろうと。普段は悲観的に考える形勢判断も、あの2ヶ月間は楽観的になっていた。命懸けで勝負に挑んでいましたが、負けても命をとられるわけではない、と」

谷川浩司

そして、この七番勝負は3勝3負のフルセットにまでもつれ込みます。

しかも第六局では谷川王将が終盤でミスをして負けていました。

王将戦第七局の前に谷川王将はこう語っています。

「こういう状況になったのは(羽生と)最もタイトル戦を戦ってきた自分に責任がある。もし、相手が自分じゃなければただ観ていることしかできない。もう、自分で決着をつけるしかない」

谷川浩司

両対局者譲らず3勝3敗で迎えた最終第七局。

史上初の七冠王の誕生の瞬間を捉えようと150もの報道陣が駆け付けました。

そして最終第七局はまさかの千日手差し直しに。

激戦の末、谷川王将が勝って防衛し、史上初の七冠王誕生とはなりませんでした。
この時誰もがこう思いました。

「もう当分七冠王達成の日は来ないだろう…。」

「もう2、3年は、(七冠の)チャンスは巡ってこないだろう」と羽生先生自身も回想しています。

なぜならタイトル戦は一年に一度。

また七冠独占を狙うなら羽生六冠(当時)が持っているタイトル6つ全てを防衛し、A級順位戦よりレベルが高いと言われる王将リーグをトップの成績で終えなければいけません。

普通はこんなの無理です。

漫画の世界でもあり得ません。

でも羽生先生は普通じゃなかった…。

それから1年間、羽生六冠(当時)は王将戦第7局の前に既に防衛していた棋王戦(対・森下卓)を含め、名人戦(対・森下卓)、棋聖戦(対・三浦弘行)、王位戦(対・郷田真隆)、王座戦(対・森けい二)、竜王戦(対・佐藤康光)と、なんとまさかの六冠のすべての防衛に成功します。

さらにまた王将戦の挑戦者にまで勝ち上がって谷川王将への挑戦権を再度手に入れます。

これすごすぎませんか?

1996年、羽生六冠の谷川王将へのリベンジマッチがわずか1年で実現し、王将戦七番勝負は羽生六冠の3勝0敗で第四局を迎えます。

早くも七冠誕生に王手をかけたことで報道陣の数は昨年よりもさらに多い250が駆け付けます。

そして、その第四局を82手で勝った羽生は史上初の七冠独占を達成します。

羽生七冠王の誕生です!

ちなみにこの時の羽生先生は第4局1日目の前日から風邪を引いて熱を出していたそうです。

これについては、本人いわく「体調管理が悪いことは褒められたものではない」としながらも、「いい状態ではないから、負けてもしょうがないと思ったことが、逆に、プレッシャーを低減させた一面があった」と述べています。

この対局を終えた羽生七冠は部屋に戻るとベッドに倒れこみ、頭の中は真っ白、これは初めて竜王や名人を取った時とは全く異なったものだったそうです。

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