羽生善治

【羽生善治七冠王誕生までの軌跡】七冠奪取失敗→六冠防衛→七冠制覇までを詳しく解説

nanakan

1996年2月14日、将棋界に激震が走りました。不可能と思われた棋界タイトル全7つの同時戴冠が25歳の棋士によって成し遂げられたからです。
その棋士の名は羽生善治。後にタイトル通算獲得数99期を誇る大棋士です。
当時の将棋界のタイトルは全部で七つ【名人・竜王・王将・棋聖・王位・知王・王座】これら全てを一人の棋士が独占するという大記録。その前年にはドラマがありました。
この記事では七冠挑戦から失敗、そして六冠防衛から七冠達成までを詳しく解説しています。

七冠への挑戦失敗

将棋界のタイトルは竜王、名人、棋聖、王位、王座、棋王、王将の計7つだった頃。

1995年、初めて羽生善治六冠が谷川浩司王将に前人未到の七冠独占を懸けて挑みました。

実は”七冠王”という偉業を最初に宣言したのは皮肉にも谷川浩司でした。

谷川は1983年に当時最年少の21歳で名人を獲得し一躍脚光を浴びます。そして七冠を目指すと宣言したのも彼が最初なんです。

しかし、夢の七冠に王手をかけたのは8歳下の羽生善治。

そして、その七冠を阻止する役回りとなったのが谷川浩司なんです。

この時、羽生六冠は王将以外のタイトル竜王、名人、棋聖、王位、王座、棋王、を同時に持っていました。

夢の七冠か?意地の七冠阻止か?

将棋界のみならず日本中が注目したこの王将戦は、1月に開幕しましたが、王将戦七番勝負の第一局と第二局の間に阪神淡路大震災が起こり、関西に拠点を置いていた谷川王将(当時)も被災。

タイトル戦は延期かと思われましたが、谷川は妻の車で11時間の移動をして大阪のホテルに辿りつき、翌日の順位戦を快勝。そして日光に移動して王将戦の第二局を迎え勝利。

史上初の七冠が懸かった王将戦は羽生の二連敗スタートとなります。

後日談では、阪神淡路大震災に被災した出来事が谷川王将(当時)にとってプラスに働いたと語っておられます。

 

「負けることが怖くなくなった、というんですかね……神戸は地獄のような状況なのに、大阪では普通に生活して対局が行われている。将棋を指せるのは何て幸せなことだろうと。普段は悲観的に考える形勢判断も、あの2ヶ月間は楽観的になっていた。命懸けで勝負に挑んでいましたが、負けても命をとられるわけではない、と」

谷川浩司

2連敗スタートとなった羽生ですが、そこは六冠王。

3勝3負のフルセットにまで、もつれ込みます。

最終第七局で七冠制覇”か”七冠阻止”かが決まるなんともドラマチックな展開に多くのプロ棋士と約150人の報道陣が王将戦の行方を見守ります。

王将戦第七局の前に谷川王将はこう語っていました。

「こういう状況になったのは(羽生と)最もタイトル戦を戦ってきた自分に責任がある。もし、相手が自分じゃなければただ観ていることしかできない。もう、自分で決着をつけるしかない」

谷川浩司

第六局では谷川王将が終盤でミスをして負けていました。やはり流れは羽生かと思われましたが…。

最終第七局はまさかの千日手。

76手で千日手(一局のあいだにまったく同じ状態が4回現れること)が成立します。

千日手は先手と後手を入れ替えて指し直しが行われます。

24日の14時52分に千日手となり、その約1時間後に指し直し局が行われます。

報道陣からは「どちらが勝ったんですか?」という将棋を全く知らない人も訪れているほどでした。

指し直し局は当日の24日16時から対局が開始されます。

ここまで来たら両者意地の張り合いかのように40手目まで、千日手局と同じ進行に。

将棋の神様を信じたくなるようなドラマチックな展開に「もう永遠と終わらないのでは…」とささやかれ始めた時、谷川王将が41手に手を変えました。

そして、激戦の末、21時18分に羽生六冠が投了。

谷川王将が勝ち王将位を防衛し、史上初の七冠王誕生とはなりませんでした。

この時、誰もがこう思いました。

「もう当分七冠王達成の日は来ないだろう…。」

「もう2、3年は、(七冠の)チャンスは巡ってこないだろう」と羽生先生自身も回想しています。

なぜならタイトル戦は一年に一度。

また七冠独占を狙うなら羽生六冠(当時)が持っているタイトル6つ全てを防衛し、A級順位戦よりレベルが高いと言われる王将リーグをトップの成績で終えなければいけません。

普通はこんなの無理です。

漫画の世界でもあり得ません。

しかし…。

対局後の羽生先生の手記では次のように書かれています。

「谷川さんは第二局の前に行われた順位戦にも出たでしょう。谷川さんの気力は、正直言ってすごいなあと思いました。そういう状況になってみないとわからないけれど、私なら、今度のような地震なら、対局を延ばしてもらったと思うんです。ただ、(中略)そのことと勝負は全然関係ありません。勝負が始まってしまえば、それは気になりません。棋士はそれぞれにいろいろな問題を抱えてるわけでしょう、対局になればそれは忘れてやります」

引用先:Number Web

そして最後に…。

「まあ、この一年間で体力や精神力のバランスの取り方はわかりました。このペースでいけば、来年はいけるんじゃないか、とそう思ってます」

引用先:Number Web

と結ばれています。

 

羽生善治意地の六冠防衛

それから1年間、羽生六冠(当時)は王将戦第七局の前に既に獲得していた棋王戦(対・森下卓)を含め、名人戦(対・森下卓)、棋聖戦(対・三浦弘行)、王位戦(対・郷田真隆)、王座戦(対・森雞二)、竜王戦(対・佐藤康光)と、なんとまさかの六冠のすべての防衛に成功します。

以下が当時の羽生六冠の防衛戦です。

タイトル戦挑戦者羽生から見た勝敗結果
名人森下卓4勝0負防衛
竜王佐藤康光4勝2負防衛
王位郷田真隆4勝2負防衛
棋聖三浦弘之3勝0負防衛
棋王森下卓3勝0負防衛
王座森雞二3勝0負防衛

 

そして、王将位の挑戦権を懸けた王将リーグでは好成績を残し、再度の挑戦かと思われたが、対森内戦にて羽生は負けを覚悟していました。

しかし、秒読みに追われた森内がミスを連発。

羽生は奇跡的に勝利することができ、なんとまた谷川王将への挑戦権を手に入れます。

 

羽生善治七冠王誕生

1996年、羽生六冠の谷川王将へのリベンジマッチがわずか1年で実現し、再度七冠への王手がかかりました。

六冠全てを防衛し、その防衛戦の渦中である7月には女優の畠田理恵さんとの婚約を発表しており、本当にもうどうなってるんだと驚くばかりです。

肝心の王将戦は羽生六冠の3勝0敗で第四局を迎えます。

早くも七冠誕生に王手をかけたことで報道陣の数は昨年よりもさらに多い250人が駆け付けました。

そして、2月14日午後5時6分。運命の時は訪れます。

「負けました」

という谷川の声と共に伝説は成し遂げられたのです。

第四局を82手で勝った羽生は史上初の七冠独占を達成。

羽生善治七冠王の誕生です。

ちなみにこの時の羽生先生は第4局1日目の前日から風邪を引いて熱を出していたそうです。

これについては、本人いわく「体調管理が悪いことは褒められたものではない」としながらも、「いい状態ではないから、負けてもしょうがないと思ったことが、逆に、プレッシャーを低減させた一面があった」と述べられています。

この対局を終えた羽生七冠は部屋に戻るとベッドに倒れこみ、頭の中は真っ白、これは初めて竜王や名人を取った時とは全く異なったものだったそうです。

敗れた谷川浩司先生は。

「ファンのみなさんにも、羽生さんにも申し訳ない」

と語るのみでした。

一方の羽生は…。

「前年の王将戦に敗れて以来、苦しい状態が続いてきたものの《昨年の後半からようやく調子が上向きになってきた。今回の王将戦は、そのピークの時期にうまく重なってくれたのです。一方、谷川さんの方は、調子を落としつつあった。その差が、四連勝という意外な数字となったのだと思います」

引用先:Number Web

と週間文春に寄せた手記で述べられています。

 

鬼になった羽生善治

前年の王将戦から、羽生先生を追い続けてきたテレビ局のディレクター曰く。

「去年のほうが、羽生の顔は面白かった」

と語られており、その解釈を田中寅彦先生は以下のようにされています。

「前年のほうが、羽生の顔には人間味があった。人間味があったからこそ、いい絵が取れ、そしてそこに隙が生じる。前年の羽生にはその隙があったが、七冠への二度目の挑戦の時は、羽生はすっかり鬼になっていた」

七冠達成という大偉業は普通では成し得ません。人間を捨てて鬼にならなければ成し得なかったのかもしれません。

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おまけ

後日、羽生先生はインタビューにて「七冠を今後、ほかの人も含めて実現する可能性はあるか?」と聞かれ、以下のように答えています。

「ないと思います。正当な競争原理が働けば一人が独占するのは難しいでしょう。体力も続きません。」

と、答えていました。

 

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