四間飛車は、序盤は囲いに専念し、居飛車からのカウンターを狙いという戦法で、目的がわかりやすくはっきりしている戦法であるため、四間飛車はアマチュアの将棋指しの方々にとって、最も馴染み深く、最初におすすめされる戦法ではないでしょうか?
そんな四間飛車の栄枯盛衰の歴史をまとめてみました。
四間飛車の歴史とは、対居飛車の歴史と言っても過言ではないでしょう。
そのウイルスとワクチンのような壮絶な歴史をご覧ください。
目次
四間飛車の始まり
将棋の最古の棋譜は江戸時代のもので、1607年の大橋宗桂(初代)vs 本因坊算砂の将棋です。
その最古の棋譜は、なんと居飛車vs四間飛車なんですね。
それがこちら
囲いこそ、美濃囲いではないものの、ちゃんと後手の飛車が4筋にいますね。
これは立派な四間飛車と言えるでしょう。
つまり、四間飛車の歴史は少なくとも、400年以上の歴史があるのです。
大山康晴と四間飛車
江戸時代から時代は移り、四間飛車の全盛期とも言える時代だやってきます。
その立役者となったのが、大山康晴十五世名人です。
当時の第一人者である大山名人が四間飛車を主に採用されたので、自然と皆が四間飛車を指すようになります。
理由は簡単です。
一番強い人が使っている戦法だからです。
当時の居飛車vs四間飛車は急戦調のものが多く、居飛車の攻めvs四間飛車の固さという、まさに矛と盾のような戦いでした。
居飛車側が展開の主導権を握る代わりに、四間飛車側は囲いの固さで居飛車を上回るという感じでしょうか。
その当時の居飛車vs四間飛車の対戦成績はわかりませんが、大山名人の生涯勝率が6割4分7厘ということから見ても、居飛車とは互角以上に戦えていたことが伺えます。
この頃には居飛車側の工夫が見られ、5筋位取り戦法や、5七銀左急戦、玉頭位取り、鷺宮定跡などが登場しています。
それから大山名人がお亡くなりになったあと、猛威を振るってきたのが居飛車穴熊でした。
四間飛車vs居飛車穴熊
居飛車穴熊戦法
を発明し、本格的に対振り飛車用の位置まで押し上げたのが、序盤のエジソンと言われた田中寅彦九段です。
それまでは、前述したとおり、居飛車側が展開の主導権を握る代わりに、四間飛車側は囲いの固さをメリットに戦ってきましたが、居飛車側が穴熊のような固い囲いを採用してくると、四間飛車側は主張できる明確な利点がありません。
そのため、四間飛車側は居飛車穴熊に苦戦を強いられることになり、四間飛車党は減少の一途をたどっていきました。
このままではいかん。
まさにフリーザのような存在の居飛車穴熊に、サイヤ人(四間飛車)は成す術もなく散ってしまうのか…。
スーパー四間飛車の登場
対居飛車穴熊対策として、小林健二九段が発明したスーパー四間飛車が登場します。
元々は居飛車党だった小林九段ですが、居飛車穴熊が猛威を振るっていた1990年頃に四間飛車党に転向し、このスーパー四間飛車を武器に、当時のB級1組順位戦をオール四間飛車で10勝1負という好成績で、見事A級復帰を果たしました。
小林九段は四間飛車党への転向の理由をこう語っています。
「直接のきっかけは、応援してくれていたある将棋ファンから『なぜ矢倉ばかり指すのか。お前が本物のプロならば、もっとファンに分かりやすい将棋を見せてみろ』と言われたこと。常々『居飛車穴熊は将棋界のガンだ・・・これがプロの将棋をつまらなくしている』と思っていた。よーし、ガンをやっつけて自分の存在価値をしめそうと・・・」
このスーパー四間飛車は、当時猛威を振るっていた居飛車の穴熊と左美濃囲いに焦点を絞り、四間飛車側から積極的に動いていく戦い方です。
つまり、穴熊の登場で、四間飛車の固さの利がなくなったため、それまでとは逆に四間飛車側が展開利を主張して戦っていこうという戦法なのです。
ここまでの居飛車と四間飛車の歴史を軽くまとめると…。
居飛車の展開利 vs 四間飛車の固さ
↓
居飛車の展開利と固さ vs 四間飛車
↓
居飛車の固さ vs 四間飛車の展開利
という当初とは立場が全く逆になってしまったのです。
しかし、これでも、居飛車穴熊は四間飛車党にとって強敵には違いありません。
居飛車穴熊戦法を体系化した田中虎彦九段のような、画期的な発明が四間飛車側には必要でした。
藤井システムという革命
序盤のエジソンとして居飛車穴熊を大流行させた田中虎彦九段に対抗して、四間飛車側には序盤の革命家がいました。
それが藤井猛九段です。
藤井猛九段が発明したが、言わずとも知れた"藤井システム"です。
藤井システム第一号局は鮮烈な強さを棋譜に残しました。
47手。
たった47手で居飛車穴熊を投了に追い込んでしまったんです。
それから、藤井猛九段は藤井システムを武器に竜王三連覇を果たします。詳しくはこちら→【藤井システム秘話】藤井猛の竜王三連覇の原動力となった藤井システムを解説
革命的な戦法の登場によって、居飛車側は窮地に立たされたかと思いきや…。
当時、藤井システムを指しこなせるのは藤井猛九段ただ一人という状況でした。(藤井システムが難しすぎたため)
序盤の整備
四間飛車側が藤井システムを指しこなすには序盤への理解が必要でした。
それと同時に、同じく居飛車側にも藤井システムに対抗するには序盤への理解が必要でした。
そこで、急速に推し進められたのが”序盤力の整備”でした。
居飛車側は急戦をみせつつ、持久戦にもできるといった、藤井システムを牽制しながらの駒組みをするようになり、一方で、藤井システムも急戦を見せつつ、美濃囲いにも囲えるといった序盤の柔軟性を見せていきます。
こうして序盤にスポットライトが当てられ、居飛車側と四間飛車側の序盤の駆け引きが展開されるようになりました。
藤井猛九段が竜王位を失冠したのちも、藤井猛、鈴木大介、久保利明といった振り飛車党御三家の活躍がありましたが、居飛車に苦戦し始め、四間飛車党は減少していきます。
振り穴王子と振り飛車穴熊
2010年、広瀬章人五段(当時)が王位戦で渡辺竜王(当時)と羽生名人(当時)を下し、王位戦の挑戦者となり、深浦王位(当時)に4勝2負2千日手で、見事王位のタイトルを奪取しました。
その原動力となった戦法が振り飛車穴熊でした。
王位戦8局のうち、なんと6局が振り飛車穴熊でした。
これを機に、四間飛車側が美濃囲いではなく穴熊を多く採用するようになっていきました。
その裏では、序盤の革命家である藤井猛九段が角交換四間飛車を指すようになり、タイトル戦に挑戦するなどの活躍を見せました。
この時は、四間飛車穴熊と角交換四間飛車が指されるようになったわけですが、以前として居飛車側が強く、振り飛車党としても、石田流三間飛車やゴキゲン中飛車があり、四間飛車を指す人は少なくなっていきました。
四間飛車激減の理由
以下は阿部健次郎先生の著書”四間飛車激減の理由”より、四間飛車が減った理由を解説していきます。
結論から言うと四間飛車は現状では居飛車穴熊に勝てないことが理由です。
居飛車穴熊への対抗策は、上記でも述べたように、色々ありましたが、どれも居飛車側に対策されてしまって、勝てなくなってしまったこと。
そして、極めつけは、松尾流穴熊の登場です。
以下の先手の玉形が松尾流穴熊です。
以上、この松尾流穴熊で四間飛車側はやや無理な動きをしなければならなくなったことで、四間飛車側の不利が露呈してしまいました。
四間飛車の歴史まとめ
ここまでの流れをまとめると以下のようになります。
居飛車の展開利 vs 四間飛車の固さ
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居飛車の展開利と固さ vs 四間飛車
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居飛車の固さ vs 四間飛車の展開利
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居飛車の固さ vs 四間飛車の固さ
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松尾流穴熊で居飛車有利に
以上が四間飛車の歴史です。
今後また、画期的な発明で四間飛車が復活することを期待したいところですね。
もちろん、これはプロの話で、アマチュアの間ではまだまだ四間飛車は根強い人気を誇っている戦法です。